『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[5]


○民衆もまたワインを飲む


(1)中世フランスの民衆の飲み物

A.農民や都市の民衆は多くの場合、水を飲んでいた。しかし大抵は汚染された不衛生な水だったから「赤痢・腸チフスは風土病になっていた,コレラ・ペストが猛威を振るって夥しい人命を奪っていた」
☆後に(一応)飲むことのできる水が本格的にパリに引かれた(17世紀~)
B.農村では“乳”“バターミルク(乳からバターを作った後に残る液体)”がよく飲まれた」が、これも傷みやすく食中毒の恐れがあった
C.都市・農村ともにフランス北部では“セルヴォワーズ(ビールの祖先に当たる)”が飲まれた。これは「a.大麦だけを使った自家製のものが多いかった」「b.栄養価は高いがトロッと濁っていて、美味しいとは言い難い」「c.せめてもの風味付けにセージ・ニガヨモギ・ゲンチアナの葉や根を加えた」貧乏人の飲み物であった
〈例〉“メドン(蜂蜜入りセルヴォワーズ)”が飲まれていた(1600年)
D.やがて、高価な“ビール(大麦とホップを使い、澄んで苦味があって強い)”がフランスの都市に、ドイツ・ハンザの北海沿岸の都市からもたらされるようになる(15世紀~)。呼び方は、輸出都市から取った“アンブルゲビーア”“ブレマール”(ハンブルク,ブレーメン)だった
E.一方で農民の飲み物には“シードル(リンゴ果汁を発酵させて作る)”があった。これがブルターニュからピカルディーにもたらされる(14世紀)ようになる。実際には「リンゴの搾りかすに水を加えて作る」粗末なものが多かった


(2)農民の飲み物

A.農民はほとんどワインを口にしなかったようだ。さすがにブドウ栽培農家だと、日常用に若干の自家消費分を取っておいたようだが(フォレ地方・リヨネ地方)、これも多くは“ピケット(ブドウの搾りかすに水を加えて作る、ワインの二番煎じ)”だった
B.ピケットは最初「a.圧搾機を使わずに足でブドウを踏んでいた(圧搾機は貴族・教会の所有物)ので、汁を抜いた残りかすにも色素・タンニン・糖分がかなり含まれていた」。このため「b.水を加えると再び発酵し、いささか酸っぱいが爽やかなピケットができた」「c.ただし翌年の春まで保存が利いた」(~13世紀)
C.後に圧搾機の使用が広まり、二番煎じのワインの量・質が低下した(14・15世紀)。そこで「d.アルコール度を高めるために(場合によっては)リンゴ・梨・野生の桑の実・ニワトコの実・ナナカマドの実」が加えられた。それでも「e.樽で保存するのは保証の限りではなかった」
D.中世の農民は(古代の奴隷,ローマ軍団の兵士のように)“酢”もよく飲んだ。「f.水に酢を加えるとワインもどきの味になって泥臭さを抑えられる,それとは知らずに殺菌になる」というメリットがある

【農民とワイン】
E.ブドウ栽培地域では(自作農でも、分益小作農でも、作男でも)必ず幾ばくかは、自分が飲むワインが手に入った。「重労働のために雇わた労働者」にはワインが出された。また農家であっても「葬儀に集まった人に敬意を表すべく、ワインを出した」(プロヴァンス地方)
☆式を賑やかに盛り上げ、さらに故人の思い出を刻みつけるためだった
F.樽のワインが酸敗して酢のようになるのは、決して珍しいことではなかった。その酸味以上に嫌われたのが「ピッチ(木タール)の樹脂の味」であり、樽の内側にはピッチを塗らなくなっていく(カロリング期以降)


(3)都市住民とワイン

A.都市では「a.新酒が到着して売り出される10月始めから数週間は、存分に飲むことができた」としても、翌年の夏になると「b.在庫は底をつくor酸っぱくなっている」ので、端境期を乗り切るのはたいてい簡単ではない
★中世都市の酒蔵の在庫一覧に“古い”ワインが登場することは決してない
B.都市は急成長していった(12・13世紀)が、それでも変わらずに「c.市門を取り巻いてブドウ栽培地が広がっていた」。さらに成長した「d.都市ブルジョワが開発主体となり、ブドウ畑を所有した」。都市は労働力を提供し「e.日雇いの労働者が畑を手入れした」
C.リヨン{“フランシーズ証書(特許状)”を取得(1320年)}では、ブルジョワが作ったワインは入市税を免除された。ブドウについて、赤ワインには“ガメ”“セリーヌ(シラー)”“ムリ(ピノ・モリヨン?)”などの、白ワインには“ブラン・ブラン(ピノ・フロマント?)”の品種が使われた

【メッツ(ロレーヌ地方)の事例】
D.2つの小教区では「職人・労働者までもが、猫の額ほどの土地を借りてブドウを栽培した」ことから、彼らは“ブドウの支柱の破片”と呼ばれた。彼らが栽培したのは“ゴエ”種(頑強で収量が多い、黒い大粒の実をつける)だった。その他にはいくぶん上質な“ガメ”種(“ブルゴーニュの黒ブドウ”と呼ばれた)も、若干栽培していた
E.このような小栽培者と、司教座聖堂参事会員・大修道院長たちとの間に争いは絶えなかった。というのは後者は「高級品種たる“フロマント”を栽培して良質の白ワインを作り、モーゼル川経由でドイツやフランドルに売ろうとしていた」から。後者の意を受けて市当局は「ゴエを引き抜くべし」と命令を何度も出したが、守られなかった
F.市は消費されるワイン全てに“ドゥゾマージュ”という特別税を課した(1409年)。これは戦争による損害を埋め合わせ、市壁を再建するためであったのだが、以降も存続した(~1790年)
G.この課税のおかげでワインの消費量が算出できる。年間1人当たりの消費量は「50~150L:1日あたり137~410cc(脱税の影響か、変動幅が大きい)」であった。ここには「多数の兵士が町に出入りしている」「ロレーヌ地方はビール産地である」という事情を考慮しなければならない


(4)中世パリとワイン

A.中世後期のパリは人口150,000~200,000人(1350~1450年)を擁し、ワイン入市量は年間38,600~46,000KL(徴税額から算出)に及んだ
B.ただしこの数字には「パリを通過するだけで、フランス北部・ヨーロッパ北東部へ運ばれたワインが含まれている」ので、優に半分は差し引かなければならない。反対に「特権によって免税扱いでパリ市内に運び込まれたワインは含まれていない」(例:パリ大学のワイン,市民が自分の畑で産したワインを運び込む場合,もちろん王のワイン)
⇒そこで間を採って20,000KLが消費されたと考えると「パリ市民1人あたりで年間100L」となる。女性・子供を除外すれば、250Lを超えていた
C.これだけの供給があっても、3年に2回の割合で、5月末からパリのワインは底をついた。当然ながら不正行為が横行し「水で薄めたワインを売った酒屋が多数訴えられた」。白ワインよりもクレレ(薄い赤色orロゼ)・赤ワインに注文が集まると「桑の実・ニワトコで白ワインに色をつける」などもした
〈例〉詩人のユスタシャ・デシャン(ルーヴル宮で給仕長も務めた)は「誰もがロクデナシ葡萄を無闇に増やし/グエがモリヨンになり代わる」と嘆いた(14世紀末)
D.価格は高騰し、庶民にとって多くのワインは高嶺の花となった。以下は1ミュイ樽(160L)の価格である
2エキュ:“平地の白ワイン”(パリ近郊のコンフラン,ヴィトリ産)
5~6エキュ:白ワイン(パリ近郊のイシ,ムドン産)
7~8エキュ:白ワイン(パリ近郊のアルジャントゥイユ,シュレーヌ産)
9~10エキュ:白(オーセール産,シャンパーニュ産=“川沿いのワイン”)
10エキュ:オルレアン産のクレレ
12エキュ:赤(サン=プルサン産)
20エキュ:白ワイン(ボーヌ産)
このような価格の幅があった
E.パリ産ワインももちろん飲まれた。急速な都市化によって、塀に囲まれた大規模なブドウ畑こそ市壁の外に追いやられたが「大邸宅・修道院の庭園や中庭にはブドウ棚があった」
〈例〉パリ4区には、サン=ポール館(シャルル5世が建てて住んだ:1365年)のブドウ棚(トレイユ)に因んで名付けられた“ボトレイイ(麗しのブドウ棚)通り”がある(1556年開通)
F.パリへのワイン輸送には、陸路と(特に)セーヌ川が利用され「セーヌ河岸には産地別に何ヶ所かの荷揚げ場があった」。荷揚げされたワインは「全てグレーヴの船着場にあるワイン市に集められ、2度目の検査を受ける」ことが義務づけられた(1413年~)
〈例〉イル=ド=フランスとオセロワのワインは「グレーヴの船着場の“フランス浮き桟橋”と“ブルゴーニュ浮き桟橋”」で荷揚げされ、検査を受けた。ロワール川流域のワインは「テンプル騎士団修道院の水車近くの“バレスの船着場”」で荷揚げされた
G.ワイン販売官(ジャン2世によって組合に組織された:1351年)が上記の検査&売買監督に当たった。補佐役である10名の検査長が「樽に不備が無いか,容量が正しいかを確認した」。さらに24名の“ワインと遺体の触れ役(☆)”が「ワインの販売場所・価格を市中に触れ回った」
⇒多数の役人が介在したことは、ワインの価格を押し上げた。ワインの税収は確保できたが、それは決してワインの品質を保証するものではなかった
☆ワイン販売の布告に加えて死亡告知も行ったので、このように呼ばれた。実入りが良くて人気の役職だった(15世紀)

【ワインが飲める場所】
H.市民が「ブドウ畑を所有し、自分の家屋敷でワインを売る場合は免税だった」ただしこの免税特権には「a.半開きの戸口越しに量り売りをする」という条件が付いていた。「b.戸の下の部分は開かないが、上の部分は蝶番で下に倒れて、カウンター代わりになる」「c.客が持ってきた器をカウンターに載せ、目盛り入りのパント枡でワインを量って入れる」という流れだった
★パリの1パント=930ML相当
I.この手の商い(14世紀~1759年に行われた)では、門番・召使いたちが売り子を務めて利益に与るケースが多かった。しかし彼らは客だけでなく、居酒屋(商売敵だった)としばしば派手に喧嘩をした
J.上記の居酒屋とは“タヴェルヌ”のこと。“タヴェルヌ”では「持ち帰り用の量り売り」にの他に「テーブルを用意してそこで酒を飲ませた」。パリ(15世紀)には600~800軒あった。一般的に中世都市では「人口400人(うち潜在的男性飲酒人口150人)につき1軒」とされる
★パリでも他の町でも、居酒屋の意味で“キャバレ”を使うのは少し後のこと(15世紀初頭~)
K.居酒屋以外にも旅籠屋があり、そこでも酒・食べ物を給仕した。違いは「旅籠屋は客を泊める,特に兵士・学生などの下宿人を置いていた」点にある。また旅籠屋は「市門近く,市壁に集中していた」
〈例〉リヨンのローヌ川に架かる橋を渡った両岸には旅籠屋地区があった。エクス=アン=プロヴァンスには“旅籠屋通り”、ペリグーにも旅籠屋地区があった
L.“タヴェルヌ”や旅籠屋は(単に酒を飲む場ではなく)「出逢いの場」だった。「a.学寮・一軒家の合宿所に住む学生が集まり、賑やかに騒ぐ」「b.税金・賦課租の徴収者が仕事場とし、司法官も腰を据えて人々の訴えを聞いた」「c.建築請負師は居酒屋に職人を集めて支払いをし、時には特別手当てを弾んだ」「d.商取引も行われ、買い手は“取引成立の祝い酒”をおごった(特に15世紀~)」。とにかく取引が終われば、何はともあれ乾杯だった
〈c.について〉
職人への給金には「パン,肉,チーズ,卵,ワインも含まれていた」。起工時・竣工時・宗教的祝祭・同職組合の守護聖人の祝日(石工は聖ミカエルなので9月29日)には、職人は近くの“タヴェルヌ”に招かれてワインを振る舞われた
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